人気ブログランキング |

絵画を読む、詩を読む

料理は科学だ、ということがありますが、アートも科学、銅版画なんて化学だよな~と思う今日この頃。という話をしていたら、「芸術家は詩人の心を持った科学者」という名言を聞いた。誰が言ったの?と聞いたら自分だと。酔っ払っていたのもあり、そこにいた皆がそーだそーだ!と盛り上がりました。アーティストは右脳派かというと、それだけじゃだめで、右脳と左脳、両方を自然と切り替えながら作品を作れる人がすぐれたアーティストだよね、とそこにいたみんなが納得。

先日、大原美術館で、美術館スタッフさんがリーダーとなり、グループで語り合いながら作品を観る、という素晴らしいツアーに参加しました。30分のツアーで3作品をじっくりと、その時の参加者は5人で回りました。中のおひとりの方が、原田マハさんの「楽園のカンヴァス」を読んだばかりで、本を持っていらしていました。5人の内3人はこの本の読者で、織江さん(主人公で大原美術館の監視員という設定。担当のガイドさんがイメージぴったりの美人だった)と回れる~と最初からウキウキでスタートしたツアーでした。

せっかくだから本に出てくる作品を、と最初に見たのがシャヴァンヌの「幻想」という作品。ガイドさんは最初に「何が描いてありますか?」と問いかけます。一人1つずつ答えるのですが、一人目が「ペガサス」というと「どうしてペガサスだと思ったの?」と問いかけられます。「羽が生えた白馬だからペガサスだと思った」と答える。次の人が「天使」と答えると、再び「どうしてそう思ったのですか?」と続く。私が聴かれたとき、「「天使」でなくて少年だと思ってました。」と答えると「どうしてそう思ったか?」。私は「単純に小さく描かれているから少年かと?」とダサダサな答え。次に「女性」と答えたけれど、別の人が「もしかしてこれは人でなくて彫刻?」理由を問われると「動いていないように見える」。「もう少しよく見ていきましょうか。女性の手に何か持っている物が見えませんか?」と問いかけられると、蔦を振り上げてペガサスの首に巻きつけていることに気づく。みんなで「わ~全然気づいていなかった!」と発見する。そうすると途端にこの絵が動きのあるものに見えてくる。次に遠景。「森」「岩山」と答えていくと、別の人が「城壁に見える」などとここでもいろんな答えが出てくる。「手前は室内のようなのに奥は自然が広がっている不思議な印象が出てきた。」と私。1枚目で参加者がそれぞれ発見と感動を体験した。
次に向かったのが2階のピカソの「鳥籠」。これも最初は「何が描かれているか?」の問いかけから。「鳥籠」と答えると「なぜそう思ったか?」と聞かれます。「タイトルが鳥籠だから」。「テーブルクロス」「なぜそう思ったか?じゃあその下はテーブルだと思ったのですね?」と問いかけが続きます。次に鳥籠の中の鳥について。「どこに止まっている?」と問いかけられ、よーく見ると「鳥籠の壁面につかまっている!」と気づく。さらに羽を広げ、くちばしも開いている。「うるさくさえずっている?」「バタバタ羽ばたいている?」とみんなの見解を出し合う。どうしてバタバタ羽ばたいているのか?との問いに「ここから出して欲しい」「自由になりたい」「ピカソは独占欲が強かったから閉じ込めておきたい象徴」。私は「知らない人が部屋に入ってきて警戒してバタバタ暴れている」と感じた。子供の頃飼っていた文鳥が、すごくビビリでそんなことがよくあったのを思い出した。ここまででも十分に発見があったけれど、ガイドさんは「せっかくのピカソなので、もう少し見ていきましょう。」と背景について問いかける。「窓際で窓の外は曇天」「私は晴天に見えてた」と意見が出る。「女性の頭部の彫刻に白い部分と黒い部分があるけれど、これは光と影?」と気づく。私にとってこの瞬間が発見と感動!でした。ピカソはやっぱりとことん具象の画家だったのだ、と思った。聞いてみればよかったな~。ここまで見てもまだもう少し、と次はこの部屋には誰がいるか?私が思ったのは、「最初ピカソは一人で没頭して仕事をしていた。そこに誰かが入ってきた。そして鳥が暴れ出す。ピカソの集中もそこで乱されてしまった。」という場面。「ピカソ自身が囚われている感覚を持っていた」という意見も出たりしたかな。1枚の絵を見ても受け取るストーリーは人それぞれ。本当に面白い。適当に思いついたことに、なぜ?と問いかけられることで、さらにじっくり考えたり見たりするようになる。他の人の意見で自分の感じ方が変わったり、気づいたり。どちらの作品も午前中に1度、しかもピカソは「ピカソか~」とそれなりにじっくり見たつもりだったけど、何一つ気づいていなかった。
最後に、「抽象絵画も1枚見てみましょう」と抽象絵画が並ぶ場所へ。みんな一斉に「ここは飛ばしてた~。」「無理~。」と声が上がる。アレシンスキー「夜」を見ていく。最初に「好き?嫌い?」との問いかけに、「嫌いかな、、、」と答えた方に「なぜ?」「暗いから」。すると「暗いと思いますか?」と問われ「タイトルが夜だから暗いのかなあ」と私。「でもよく見て」と促されると、赤や緑を発見する。「文字みたいに見える」「テキスタイルみたい」などの意見が出ると、少し離れてみるように促される。「先ほどは文字とかテキスタイルと平面的な印象を持たれていましたけれど、ここから見るとどうですか?」と問われると、なるほど「夜の街を俯瞰で見ている?」という気がしてくる。最初はみんなが無理~と思った作品だったのにいろんな風に見えてきた。
ここでツアーはお開き。でもせっかくだから、隣にあった抽象絵画の「メキシコ」をもう一度見てみた。一人で見たときは、メキシコの町を上から見たイメージ?カラフルなメキシコの衣装?などと考えていたけれど、少し離れたら、それが激しく跳躍し踊る人物に見えた!感動~。こんな見方を全部の作品でやっていたら1つの展覧会を何時間かけても見終わらないけれど、2~3枚だけでもこうやって見るようにしたら面白いだろうな~と、これからの美術鑑賞に新たな楽しさが加わった。自分が始めた子供との美術鑑賞の活動にもすぐさま活かせる体験だった。

この後、美術館を去りがたく、もう一度「受胎告知」の前に行くと、先ほどのツアーでご一緒した方たちと再会し、感想を語りあったり、インスタをフォローしあったりと交流まで生まれてしまった。なんて意義深いツアーだったんだろう、、、と大原美術館と私たちの織江さんに感謝。

長くなりますが、話は続きます。
先日のムットーニさんの講演の話。ムットーニさんが前橋文学館に依頼された萩原朔太郎の詩「殺人事件」を題材に収蔵作品を完成させるまでのお話でした。講演会の2日前に、東京のギャラリーで新作の展示があったのでムットーニさんとお会いできたのですが、前橋に行くことをお伝えすると、「先に殺人事件を読んでおくと面白いよ。」とのことでした。ネットで見つけられたので自分なりにじっくりとこの詩を読んでみました。詩を読む習慣がないのでなかなかに難しいのですが、何度も読んでいくとイメージできる部分が増えてくる。私がたどり着いた結論は、恋人を殺したのは「私の探偵」だったのでは?つまり「曲者」は私自身だったのでは?そこで、帰宅後に手元の文庫本でこの詩を読むと、「私の探偵」に注釈がある。読んでみると「私の探偵=曲者」とする解釈もあるとのこと。これはかなり嬉しかった。そしてムットーニさんの作品を観ると、なんと「私の探偵=曲者」で表現されている!
講演でムットーニさんがこの解釈に至った説明があり、そしてこの大発見を世田谷文学館の学芸員さんに披露されたところ「それは定説ですね~。ムットーニさん凄いですね。」と軽ーく言われてしまったのだそうです。そうなのか~。
ムットーニさんの解釈はさらに続き、作品の特性上、一度展開した物語を元に戻さないといけないために、スタートを詩の冒頭とせず、最後に詩の冒頭に戻る、物語をループさせることで曲者=私の探偵は永遠のこの殺人から逃れられないという解釈を得る。ではだれが曲者を突き止めたのか?それは殺された女であるはず。。。
こうして詩を深く深く読むことであの作品世界が形づけられていくのか、、、

詩につづられた言葉をとことん読み込み、そこから感じる感覚、冷たさ、透明感、色、光、時間、物語をどう解釈し、ご自身の作品の中で表現できるか、表現するか、の試行錯誤についてのお話はそのどの部分をとっても発見と感動の連続であることがわかる。あのピカソの絵を何度も見返して、だんだんと深く作品に入っていく作業と通じるものがあるように感じた。そうなると、今まで読んだ詩も何度でも楽しめるのだろう。

一枚の絵、一枚の詩、優れた作品が永遠に色あせないのは、そうやって一人一人が何度でも深く読めるものだからなのかもしれない。

# by fumiko212 | 2018-12-29 03:02 | アート | Trackback | Comments(0)

作業になっていないか?

先日、瀧口修造が何度も出てきた話を書きましたが、今回は「作業になってないか?」という言葉が続けて出てきた話。

全て表現についての話で、同じ意味で出てきました。

最初は、デッサンについて。黒い部分をどう描くか。黒く「塗る」のはダメ、あくまでも「描く」。「塗る」のはただ鉛筆を動かす「作業」になってしまう。それは見て描いていることにならない。

次は、先日の前橋文学館まで聴きに行ったムットーニさんの講演で。ムットーニさんの作品は、板にヤスリをかけたり、ひたすらハンダ付けしたり、の作業が山ほどあるのだけれど、作業に没頭してしまうと自分が何をやっているのかわからなくなる瞬間があるのだそうです。そこでそのまま作業に没頭せず、第一印象に立ち戻るようにしている、とお話しされていました。

そして、最後はチェロのレッスンで。リズムが上手くとれず、自分はリズム音痴なんじゃないかとよく思うと質問したところ、先生から「常に拍を意識すると良い。」とアドバイスを頂きました。但し、先生はメトロノームを使うのは好きじゃないと。「メトロノームでずっとやっていると、作業になっちゃうんだよね。」とおっしゃったのです。メトロノームは最後の仕上げで確認で使うのは良いけど、最初からずっとメトロノームはお勧めしないとのことでした。

ここまで来ると、本気でピンときます。表現において、作業に埋没するのは最も危険なことなのだと。

そういえば、作業になってるなって思ったことがずっと前にあったことを思い出しました。ピョンチャンオリンピックの時のフィギュアスケート坂本選手。確かショートの方だったかな?最初のジャンプを失敗して、後半のジャンプの構成を変更して乗り切った演技だったのですが、私にはあの演技はまさに「作業」に見えたんだよな~。そういうことだったのか。

表現というと芸術的な事ばかりを連想するけれど、生活のいろんな場面でも「作業」にしてしまうといい結果が出ないものってありそうな気がする。この言葉、覚えておこう。

# by fumiko212 | 2018-12-27 22:36 | アート | Trackback | Comments(0)

瀧口修造が3回続いて出てきた話

朝、家族と、最近○○(芸能人とか)見ないよね?と話すと、その日の夜にテレビに出てきたりすることありますよね。あれなんなんでしょう?
最近、私が続けて聞いた名前が瀧口修造。それまで知らなかったというか、夏に一度見た名前なのに覚えていなかった、、、前提が恥ずかしい、、、汗

最初は、世田美のムナーリ展の学芸員さんのレクチャーを聞いたとき。ヨーロッパでは芸術家とはなかなか認識されず、近年再評価が進みつつあるというムナーリが、日本では比較的早くから紹介され人気が高いのだそうです。そのきっかけは50年代に国内のデザイン雑誌で取り上げられたこと、そして美術評論家である瀧口が早くからムナーリを評価したことが影響していると考えられるのだとか。瀧口は58年にはムナーリに会っているのだそうです。私のその時のメモには「美術評論家」と書いてある。
次が、先日、銀座のギャラリーで桑原弘明さんの展示を観に行ったとき。数点ある新作のうちの、桑原さんご自身がレクチャーしながら見せて下さった作品のタイトルが「淋しい故に我れ存在する」とあり、これは、、、と伺うと「瀧口修造の詩の一説だ」とのこと。何か聞いたことある名前だけど思い出せない。。。とここでも深く聞けずにもやっと印象に残っただけ。
3回目が、その後すぐに行った横浜美術館の企画展版画家の駒井哲郎展でした。人の目をモチーフにした「夢」の連作についての解説に「詩人の瀧口修造が特に高く評価した」と記載があり、やっと全部が繋がった。
そして、スコープ(小箱の中の造形を片目でレンズ越しにのぞき見る形式の作品)作家の桑原さんが、駒井哲郎の目を評価したという瀧口とつながった。

スコープのタイトルのあの一説がどのような詩に収められているのか気になってググったら、今年の9月まで、竹橋の近美で「瀧口修造と彼が見詰めた作家たち」という企画展をやっていたことが分かった。そうか~。ぐるっとパスを買ってあれこれ物色していた時にこの名前を見たのか。ちょっと気になりつつもやっているうちに行けなかったあの展示、、、あ~見ておけばよかった。なぜなら、ムナーリ展も、駒井哲郎展もすっごく良かったのです。

ムナーリには軽やかなユーモアがあり、そして見る人を心地よくさせるリズムがある。オイリュトミー(善なる律動)があるのです。すごく世田美らしい企画展だなと思います。で、今オイリュトミーの講座を受けたときのメモを見たら、影響を受けた人たちの中に瀧口修造と書いてある!あれは確か5月だったかな?そんな前からこの名前に出会っていたのか。。。

駒井さんの版画には、深遠なる沈思黙考の痕跡が見えつつも、やはりどこかにユーモアがあり、善きリズムがあるように感じました。銅版画の数々の技法は、それぞれが熟練した技術や経験を必要としながら、偶然性も併せ持った表現であり、その偶然性をコントロールしようと作家は格闘しながら、その偶然性に自らが触発され作品が進化していく。駒井の作品は、新たな技法を獲得するたびに表現が変化していくのに、どの時代の作品もベースに「善きリズム」がある。だから心地よい。それが、ムナーリと共通しているように思える。

その善きリズムを感じ取って言葉で作家を勇気づけ、日本に遠いヨーロッパのアーティストを早くから紹介した人が瀧口修造なのか。この人物の名前、今度こそしっかりと覚えておこう。

# by fumiko212 | 2018-12-16 22:21 | アート | Trackback | Comments(0)

11月6館目:ルーベンス展・常設展/国立西洋美術館

5月に目標を立てたのは1か月に3回は美術展を観ること、そしてその感想をブログに書くこと、だったのですが、後半の目標は達成できませんでした。また一番最近の記憶でルーベンス展について。

今まで、私が能動的に観る西洋絵画と言えば近代の印象派以降のものだったけど、古典絵画の面白さが少しわかったかもしれない。バロックという定義は今でもよくわかってないけど、この時代の絵画をもっと見たくなった。夏前にやっていたベラスケス展、観ておけばよかった。来年、東京には来ないけどカラヴァッジョ展が観たい。

この展覧会は洋画家の先生と一緒に見ることが出来て、自分がカラヴァッジョ的(写真で瞬間を切り取ったような場面が描かれている)と思った絵画について先生に質問したところ、「全然違う。カラヴァッジョはもっと俗っぽい。例えば背景の描き方など、カラヴァッジョなら真っ暗闇に塗りつぶすところも描かれている。ルーベンスはもっと豊かだ。」と。すごく納得できた。

「ルーベンスは豊か」この展覧会はこの一言につきます。

それと、常設展にルオーの作品が1点あったので、私が先日ルオー展を観たときに感じたことを質問してみた。厚塗りなのに透明感があるのは、下の明暗の表現であの独特の厚みを出し、色彩は薄く重ねているのでは?という疑問。これも不正解で、ルオーは毎日毎日作成を完成させていた、その結果あの厚みまで塗り重ねられたのだとのこと。ああ、私はやっぱり何にもわかってないんだな~。でもそれを聞ける先生がいるって幸せだなと感じたひと時でした。

常設に展示されているセザンヌを見た先生の苦笑いも印象的で「これは、、、、もう何も言えない。」つまり、「セザンヌ絵画の特徴である自然を円筒形と球体と円錐体で捉え、画面をかっちりと構成する特徴が表れていない。印象派の絵画はフォルムをぼんやりとなくしてしまった。もう一度画面をしっかり構成することをセザンヌはやった。」とのお話を聞いて、おなかにストンと落ちるように理解できた。

自分はとにかくちゃんと見ていないしそれを言葉で表現するのも稚拙。5月から美術展を観てその感想を書くことを続けた結果、はっきりとわかったことです。元々、それを強化したくて今年をアート強化年と位置づけてやってきたけど、あまり上達せずに終わったのは残念。でも、積極的に見に行こうと思ったことで、今まであまり見なかったジャンルや時代、画家の作品を観る機会に恵まれた7か月だった。なぜか中途半端な7か月という期間ではありましたが、これにてアート強化計画は終了。でも、これからもフットワーク軽く見たい展覧会に行くようにしたい。

感想を書けなかった展覧会は以下の通り。
10月7館目:ムンク展/東京都美術館
10月8館目:黒田記念館
11月1館目:冬の浜口陽三展優雅なオブジェ/ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション
11月2館目:仏像の姿/三井記念美術館
11月5館目:ピエール・ボナール展/国立新美術館
b0031055_08101518.jpg


# by fumiko212 | 2018-12-05 21:26 | アート | Trackback | Comments(0)

11月4館目:大原美術館(前編)

数年前、国立新美術館で大原美術館展があり、そのころからずっと行きたかった大原美術館にやっと行くことができました。今回は2度目の訪問。1度目は学生の頃だったので、アート鑑賞経験ゼロでした。元美術部だった友人にいろいろ教わりながら結構楽しく鑑賞した記憶がありました。でもあれは本館だけだったと知ったのは、新美の企画展の時だったという、、、汗

新美の企画展では本館、工芸館、東洋館、分館、過去のアーティスト・イン・レジデンスの作品からそれぞれ選りすぐりが来京していました。その充実度から、全館を1日で見るのはかなり厳しいのでは?と心配していたのですが、実はそれぞれの施設はあまり広くなく、見るのが遅い私でも3時間ほどですべて見て回れました。というか、私の場合、解説文があると読まずにいられないので時間がかかるのです。大原は作品ごとの解説文はあまりないので作品に集中でき、解説を読む人で作品の前が無駄に混まないのが良いです。私は張り切って開館と同時に入館しましたが、実は30分くらいしてから行った方がチケット売り場で並んだりせず、人もばらけて見やすいのかもしれません。

どこから見ても良いのですが、やはり本館から鑑賞を始めました。第1室は1800年代までの西洋絵画。都内の新しい美術館での鑑賞に慣れている私には、大原の展示室の環境はちょっと厳しく感じたのが最初の印象です。後ろの作品があってあまり下がれず照明の反射で上部が非常に見づらかった作品もありました。キャンバスが波打っているのが気になる作品もあったり。粗探ししているようで自分が嫌になります。きっと自分が集中していなかったからだと思うんです。第1室は人が多かったので、先に第2室を観ることにしました。1900年代の絵画が中心の部屋で、半分は抽象絵画。でもそこでのんびり作品を観ているうちに気持ちが落ち着いてきて、そんな御託は頭から消え、作品に集中できるようになりました。出来れば見たかったルソーとミュージアムショップに絵葉書が置いてあったマルケが展示されていなかったのは残念だったのですが、それでも各時代の各作家を象徴するような作品が並んでいる展示室はとっても贅沢でした。

印象に残ったのはゴーギャンの「かぐわしき大地」。というのは、つい先日、あれはゴーギャンがゴーギャンになった作品だと話を聞いたばかりだった「説教の後の幻影」を思い出したから。あの絵の赤い地面と、この「かぐわしき大地」の女性の背景とが何となく自分の中でリンクした。「説教の後の幻影」の実物は多分見たことがないのだけれど、こんな色なのかなあ、、、そして手前の女性はすごく立体を感じるのに背景が多色刷りの版画のように見える(平面的ということか)ことに気づいたりもしてなんだかおもしろい絵だなあと。そしてブルターニュで自然の模倣を止めたゴーギャンが、自然を求めるかのようにタヒチに移り、それでもやはり自然を模倣することはしていないのか。。。

次に向かったのが工芸館。この夏、親しんだ民藝の人々の作品を中心とした展示館へ。本館よりもさらに天井が低くなり、薄暗い展示室が続きます。第1室は濱田庄司。狭い展示室には3段組みでぎっしりと作品が並ぶ。正直、世田美で見た作品の方が良かったかな~。世田美にも展示されていた黒と白に釉薬をかけ分けた大鉢に濱田が指で模様を付けた作品があったのですが、世田美で見たときのギュッとつかまれる感じがなかった。これはもう堀尾さんのセンスが素晴らしかったのだと思う。大原さんもきっと窯元で作品を選んだのだと思うけれど。
しかし、ここの素晴らしい点は、この後、バーナード・リーチ、河井寛二郎、富本憲吉、と夏に原田マハさんの「リーチ先生」を読んだ私にはストライクなラインナップを一度に観られること。富本、河井が濱田・リーチとは別の道を歩んでいたことが作品からヒシヒシと感じられた。河井寛二郎の独特な形には惹かれるものがありました。
後半は棟方志功、芹沢銈介。夏に日本民藝館で柚木さんの染物を観たこともあり、柚木さんが憧れたという芹沢の染色を観られて良かった。茶色地に左右の曲線を上下で鋭角に閉じた形に囲まれた幾何学模様が連なる柄の布が素敵でした。あんなカーテンにしたい。いろはを染め抜いた作品は、文字の横にその文字で始まるものが描かれていて、今の生活ではパッと浮かばないものや、ちょっとユーモアを感じるものが選ばれていたりするのが、楽しかった。どうしてもわからないものがあって、途中から隣で見始めた60代くらいの男性に「これなんだと思いますか?」といくつか聞いてしまった。それでも解読できないものが残っていたところに、もう少しお姉さんの女性が来られたので質問したところ、パッパッとお答えくださって、さすが!と思いました。例えば「け」の絵がわからなかったのですが、「袈裟ね」と速攻でお答えくださったり。今の生活だとすぐ浮かばないものよね~と言いながら颯爽と次の作品へ移って行かれました。自分はものを知らないなあと再認識。人生の先輩の知識って素晴らしい。

続いて東洋館へ。先週末に三井美術館で平安~鎌倉の日本の仏像彫刻を観たばかりで、もっと古い時代の大陸の石仏の展示はタイムリーでもあり興味深かった。中世のキリスト教芸術とも通じるところがあるのかなあ。三井で見た木彫はルネサンス以降という雰囲気。その年代がキリスト教よりも500年くらいスライドするのが宗教の歴史と一致しているようで興味深い。ガンダーラ仏の濃いめのお顔立ちなんかを確認できたのも良かったな。縄文展の土偶の顔が狭い日本列島の中でもあれだけ多様なように、仏像と言っても時代や地域でお顔立ちが変わっていくものなんだ。つまりは何となく自分たちに似た顔にするのかなあ。三井で見た木彫仏と比べてずっとシンプルな石仏って温かみがあってなんか好きだ~と感じた展示でした。アンコールワットとかボロブドゥールとか、行ってみたくなる。

ここまで見終わって、最後の分館へ行く途中に新渓園という庭園とそれを囲む旧宅があり、そこでしばし紅葉を愛でつつ休憩。コーヒーがいただけるようでした。大原美術館にはカフェやレストランがないので、もしお茶でも飲みたければここでいただくか、当日再入場可能なので近隣で一服するかになります。

最後は分館です。ここには日本の作家による近現代美術が展示されていました。新美で見た関根正二の「信仰の悲しみ」を観られた。というか見る瞬間までこの絵のことを忘れていたのですが、見たらあの時の感動がよみがえってきました。それから最近私の中で静かにブームになっている柳原義辰の道標シリーズの鳩がいました。展示室の廊下から見える中庭に展示されており、ガラス越しの少し離れた場所からしか見られない。ドアがあるんだけど鍵が閉まってる。向こう側にからも見たくて回り込んだらトイレにつづく通路で、そこはガラスがなくて縄のれんみたいなのがかかっているだけだった。ここから中庭に入っていいのだろうか、、、警備の男性が通りがかったので聞いてみた。「どうして入りたいのですか?」と聞かれたので「ガラス越しでなく直接見たいんです。」というと、ちょっと考えて、「いいですよ、どうぞ入ってください。」と言って行ってしまった。なんて融通が利くんだ!ありがとうございます。じっくり見られてうれしかった。そうそう、この方に限らず、大原のスタッフさんは全体的に感じが良いのです。すれ違うとにこにこと会釈をしてくださったり。全体的に年配の方が多いからかなあ。そういうところも都会の美術館と違って優しい気持ちになります。

ここまで見終わって12時を少し回ったところ。実は本館の第1室を抜けたところに13時半から始まる鑑賞ツアーの案内があり、せっかくだからそれに参加したいと思っていたんです。1時間半あるので、一度外に出て昼食をとり、戻ってくることにしました。
このツアーが本当に素晴らしかった。なので、エントリを分けて書きます。

# by fumiko212 | 2018-11-12 22:35 | アート | Trackback | Comments(0)