カテゴリ:アート( 148 )

7月1館目:すみだ北斎美術館/ますむらひろしの北斎展

そのうち行きたかった北斎美術館に行ってきました。建築は妹島和世さんなのだそうです。妹島さんと言えば行ったことあるのは21世紀美術館と犬島の家プロジェクトくらいしか思い出せない、、、のですが、何となく「ああそうか」と思ったのが、外から見ると大きな1つの建物なんだけど、分かれているところとつながっているところがあって、小さな開いた箱の集合体みたいなイメージがあって、そんな印象を受けました。あってるかな、、、
それから、学芸員さんの解説で知ったのですが、すみだ北斎美術館のロゴマークは北斎の版画「山下白雨」で富士山の裾野を切り裂く稲妻がモデルなんだそうです。そもそもこのロゴを知らなかったけど、考えた人すごい~。常設展には所蔵品の複製画が展示されているそうで、ざざっと北斎の生涯の作品の遍歴が見渡せるのですが、若いころ(と言っても今見直したら35~45歳)に琳派の頭領が使う雅号「宗理」を名乗っていた時代があったそうで、琳派の流れの中に北斎が存在していたということ?なんでしょうか、、、でもそのあと琳派から外れてどこの派にも属さないと宣言したとありました。このあたりの疑問を解決しないままにするのが私のダメなところなんだよな~。北斎と言えば、去年、上野の西洋美術館に「北斎とジャポニズム展」を見に行ったのに琳派なんて言葉は出てきたかなあ、、、全然頭に残ってない、、、

脇にそれますが、あの展覧会はとっても混んでたけどとても面白かった。北斎が西洋美術に与えた影響をたどる展示で、絵画にとどまらず工芸の分野からの作品も多くて、どれだけブームだったのかが窺えました。そのあと常設展で北斎が伝わる以前の西洋絵画を見て、さらに理解が深まったのでした。常設展見てよかった。

さて、話は戻って北斎美術館の企画展の方。ますむらひろし氏は今回の展示で初めて知りました。漫画家さんで「銀河鉄道の夜」を漫画で描いたりされているそうです。今回は氏の「アタゴオル」という作品の登場人物(というか猫なんですが)が北斎の作品上に現れる作品シリーズの展示でした。「アタゴオル」というのは神話の世界のことと私は理解したのだけれど、ヒデヨシという太っちょで酒飲みのおっさん猫、まあイメージとしては古田新みたいな大猫が主人公らしい。ヒデヨシが北斎の版画の世界の中を我が物顔で生きている、見ているとなんだかニヤニヤしちゃう作品。
面白かったのはますむらさん自らが書いた解説文で、この一連の作品制作(北斎版画の模写)過程で気づいた北斎作品に対するツッコミや感嘆を率直に語っているところ。何度も出てくる言葉が「遠近法が間違っている」。北斎は西洋美術にも接していて正しい遠近法を習得していたはずだからこれはわざとやっている、と。遠近法を壊してでも構図をドラマティックにすることを選んでいることに氏は模写の過程でいちいち気づかされたのだそうです。

ルネサンス期に完成した遠近法は、画家にとって絶対に必要な技術とされていたけれど、ラファエル前派や印象派の画家たちにアカデミズムの象徴として否定されていった(写真の登場により遠近法的に正しい絵画の必要性も薄れていった時期と重なる)という話を聞いたときに、それじゃあ遠近法はもう絵画の世界では必要なくなってしまったのか?という疑問が自分の中に残っていました。そんな矢先に、今やってる朝ドラで、漫画家となったスズメちゃんがアシスタントに「ここ、パース間違ってる!」とダメだしするセリフがあって、そうか、漫画の世界では遠近法が正しいことが今でも絶対に必要なこととして存在しているのだな、と気づいたところ。つまり、漫画家であるますむらさんはアカデミックな教育を受けていた19世紀の画家たちと同じ目を持って北斎を見ている、ということなのかな。素人の私はそもそも正しい遠近法かどうかなど気にしてないし(それも問題?)、絵画と言えばもっぱら印象派以降の作品ばかり好んで見ているので、そういう気付きがないのだな。それでも、去年のジャポニズム展の後で、常設でルネサンス期の作品を見たときに、「これは確かに北斎を知る以前の西洋絵画だ」と思えたのは、そういうことだったんだね。
文章長くて伝わらないと思うけど、自分の中ではいろんなことがつながってすごく納得できたので、ますむら北斎展を見られたのは本当によかったと思ってます。

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by fumiko212 | 2018-07-13 23:10 | アート | Trackback | Comments(0)

6月3館目:teamLab★Borderless

目標月3美術班活動の6月の最終回はできたてホヤホヤのチームラボボーダレスに行ってきました!オープンが6月21日で私たちが行ったのが6月27日。美術班の編み出した、オープン2週目の金曜日は空いているの法則、今回も当たりました!昼間にメディア取材が組まれていた日だったためと思われます。それか夕方はいつもあの程度なのかな?行列したの?と後から聞かれて、あの日はラッキーだったのかな?と思った次第。

既にSNS上に写真があふれていたので何となくイメージを持ってはいたけれど、実際はこんな風なのか!という興奮の連続でした。滞在4時間弱では全然足りなかった~。昭和世代の私などは「デジタル」アートというと有機的な対象を無機的な方法で表現するっていうイメージがどうしても抜けなかったのだけれど、表現としても有機的な媒体になっていることを認識した。

展示内容をいちいち私がここに説明してもあまり意味がないので、とにかく面白かったからまた行きたい、と帰るときにすでに思っていたことを書いておきます。閉館時間の22時に会場を出たときに、隣を歩いていた小4くらいの男子が「5時間も遊んでたのか!」とつぶやいていたことが、この美術館の魅力を表していたと思う。テーマパークよりずっと創造的に遊べたに違いない。触れないものも一部あるけど、触ったり上ったり飛び跳ねたりできるスペースがある美術館は他にはまだあまりない。
海外からと思われる人たちもたくさんいて、自分が美術館のために世界のあっちこっちに行くように、この美術館のために東京に行きたいと世界のアート好きに思ってもらえる施設になっていくのだろう。

翌日気づいたことがひとつ。ブログを書くときに美術展のタイトルだけは正確に書くために、チケットを取っておくのだけれど、そういえばチケットはスマホのQRコードだったので手元に残っていない。チラシ、もしくは作品リストもなし。そして、美術館につきもののミュージアムショップがなかった。写真や動画は取り放題なんだけど、形あるものは手元に何も残らないのだ。私はここにちょっと感動した。最近のミュージアムショップのグッズの凝りようはすさまじく、そこでの買い物も一つの楽しみにはなるのだけれど、せっかく見た本物の名画の印象が、最後に見たお菓子の缶やクリアファイルに印刷された印象にすり替わってしまう感じがしてちょっとなあと思うこともある。でも、この美術館に関しては、何も手元に残らないところにもきっとこだわっているんじゃないかなと思った。

7月末まではオープン記念価格でちょっとお得に入場できます。できればたっぷり時間を取ってもう一度行きたい、と思っていたら、7月7日にチームラボプラネッツというのがオープンしたというので、今月はそっちを攻めたいと思います。

最後に、チームラボボーダレスにこれから行く人への覚書。
・6時間くらいあるとカフェを含めて全部堪能できるかな?それでも足りないかな?
・上階ですごく時間を使う
・館内マップはないので見逃し注意
・カフェはお茶のみ(これも展示の一部とのこと)なので空腹対策が必要(例えば仕事帰りにそのまま入場して22時まで見ていると周辺の飲食店のラストオーダー過ぎてしまう。)
・服装はスニーカー(レンタルあり)、パンツ(床が鏡張りの部屋あり)が良い
・荷物は少なく(ロッカーあり)
・アプリを入れていくと楽しい(館内Free WiFiあり)
・一人より何人かで行った方が楽しい

6月3館目はホントにエキサイティングだった。こういうの好きだ~。

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by fumiko212 | 2018-07-12 23:32 | アート | Trackback | Comments(0)

6月2館目:柚木沙弥郎の染色 もようと色彩/日本民藝館

日曜美術館でみたいなと思ったときは会期終了間近。一度行ってみたいとずーっと思っていた日本民藝館に行ってきました。混んでた。仕方ない。混む原因を作った一人になってるのは自分だ。
混んでたんだけど、空いてたらもっと良かったけど、不思議と混雑のストレスをほとんど感じない美術館だった。こういうことってたまにある。美術館の空間の良さ、展示物の仕方、来ているお客さん、なんかが影響しあうのだと思う。

染色家柚木沙弥郎さんのことは件の日曜美術館で知ったけど、民藝のポスターは見たことがある。その人だった。既に90歳を超えるご高齢で、日本民藝館を愛し、今もふらりと訪れることもあるそう。番組で染色の型紙をザクザクと切る姿は、それはもうマティスと重なる。
展覧会のタイトルも「もようと色彩」。マティスの切紙絵をこの半年見続けていた私には、面白いように入ってくる作品ばかりだった。色彩と形が調和しながら、1枚の布の中で絶妙の緊張感を持って存在している。晩年に向かうほどその形は大胆になっていき、緊張感が研ぎ澄まされていくように感じた。大きな反物ではパターンが繰り返されていた時代を経て、近年の作品は1枚に1つの模様だけ。色も1色だけ。単純化されているのに緊張が増し、図と地がどちらがどちらかもわからない。攻撃的な緊張ではなく、研ぎ澄まされているのに何かゆったりした印象がある。
多色染めのものも面白くて、2色の版の染が微妙にずれて色が重なる部分があり、その重なる色の深さが全体を引き締めていたり、赤と緑の補色に黄色がプラスされたり、2種類の補色を組み合わせ4色でパターンが続いたり、、、と組み合わせは無限。こういった作品を作っていたころ、きっとどんなものを見てもその色や形の組み合わせをいつも考えながら暮らしているんじゃないかしら、、、

柚木さんの展示以外にも民藝館のコレクションが随所に展示されており、最近はなるべくものを出さないでしまってすっきりさせることばかり考えて暮らしていたけれど、もうちょっといろんなものを飾ったり使ったりする生活もいいなと思った。特別な美術品でなくても観るだけでうれしくなるものや、親から受け継いだ古いものなんかはしまっておいても私の後に引き継ぐ人は誰もいないのだから、使えるものは使い、飾れるものは飾ろう。

旧柳宗悦邸である西館も必見で、庭には立派な枝垂桜が。これはぜひとも桜の時期に再訪してみたい。青々とした楓の木もあり、秋もきっと素敵だろうと思う。


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by fumiko212 | 2018-06-22 23:12 | アート | Trackback | Comments(0)

6月1館目:酒器の美に酔う/静嘉堂文庫美術館

前回のエントリを読み直したところ、「月に2回くらい」とか守りに入ったことを書いていて恥ずかしい。月3に修正します。というのも、ごく最近知り合ったばかりの方に展覧会のチケットをいただきまして、さっそく1館見に行けました。ありがたや~。自分ではきっと選ばなかったであろう、工芸品の展覧会です。
酒器なので陶器が中心で、古いものだと青銅(一番古いものは紀元前14世紀頃のものだった)、それと漆器が少しずつ。後は当時の風俗がわかるような絵画。
私が一番食いついたのはやっぱり絵画で、お酒にまつわる時代ごとの風俗みたいなものが描かれていたのが面白かった。例えば、酔っ払うのは悪くないという考え方があったなんていうのはとっても東洋的だと思った。漢詩の詩人だったかな、酔うと名作がボンボン生まれたなんていう解説もあって、それってどうなのかなあ、、、と私などは思ってしまうけど。「客は酩酊するのが酒宴の主人に対する礼儀だ」という記述もあったりして。昭和のサラリーマン社会には結構こういう考え方が残っていた気がする。
それと「かわらけ」についての説明も、江戸時代(だったかな?)の杯はもっぱら素焼きのもので、使い捨てされていたそうな。いつでもまっさらな新品の「かわらけ」を使い、一度使ったものはけがれているということで廃棄していたのだとか。お神酒には今もその考え方が残っているけど、人間もそうしていたのですね。日本人の清潔好きってやっぱりこういうところからきてるのかなあ。

肝心の酒器の展示について。一言に陶器と言っても、本当に種類がいろいろあるんですね。数を見ることで見方もわかってくるのでしょうけれど、今の私には、この地の色はきれいだなあ、とか、この絵柄は豪華だなあとか、中世にこんなモダンな柄があったんだ!とか、そんな見方しかできていません。
今回、美術班活動に力を入れるにあたって、ぐるっとパスを買おうか迷っていたのですが、入場できる施設の企画展をチェックしたところ、今年は陶器の展覧会がやたらと多いのです。陶器が好きな方にとってはすごい当たり年なのかも。我らが世田美も次回は陶芸家の展覧会です。まずは好きな作家とか窯とか産地とかに出会えると、そこを手掛かりに見方が広がるのかもしれない。静嘉堂で見たのは上流階級の器という感じだったけど、例えば民芸の作家の作品なんかだと好きなものが見つけられそうな気がする。そうそう、去年、金沢の石川県立美術館で見た九谷焼の緑も素敵だったなあ。

は~、美術班活動をして感想を書く、と意気込んだものの、こんな程度しか書けない自分が情けない。しかしあきらめずに続けます。

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by fumiko212 | 2018-06-07 22:45 | アート | Trackback | Comments(0)

ひとり美術班活動

今年度は美術強化年度にしよう!本当は去年も少し目標にしていたけど全然できなかった、都内の美術館の常設を見ることをやっていきたいと思ってます。
最近の企画展は結構高いので、厳選していると、美術館に行くことがすごく減ってしまうし、自分で見たい展覧会を選ぶと新しい作家と出会うチャンスがなかなか生まれなくなってしまう。だけど常設展なら数百円で見られて、美術館が選んだ作家の作品が並んでいる。コンサートに例えるなら、定期会員になるのに近いのではないかな。

出来れば週1くらいで行きたいけど、あまり高い目標を掲げると挫折するから、せめて月2回くらいを目指したい。そして、せっかくだから、行ったらなんでもいいから感想を書くことにする。前は展覧会に行くと結構熱心にブログを書いたけど、最近はやってなかったから。

今月行った美術館は
1)東京都美術館「プーシキン美術館展」
2)東京都庭園美術館「アール・デコ・リヴァイヴァル!」建物公開旧朝香宮邸物語/鹿島茂コレクションフランス絵本の世界
3)世田谷美術館「人間・高山辰雄展森羅万象への道」、ミュージアムコレクション「それぞれのふたり小堀四郎と井村正誠」
常設展と言いつつ全部企画展込み(1は企画展のみ)でした。

1)1月のマティス旅の前に、シチューキンについて、ある時期マティスのパトロンだったことを読んだので、シチューキン・コレクションが含まれる本展はぜひ見なければと思っていた。今回の展示ではマティスは1枚だけ。でも、それはシチューキンが最初に買ったマティスの中の1枚だったのだそうだ。正直、展示されていたその作品は私にとってはあまりピンと来るものではなかった。この1枚をきっかけに、シチューキン邸の階段を飾る「ダンス」と「音楽」が生まれた、そこに至る物語はどんなものだったのか、、、そのあたりをまた読みたくなってる。
この展覧会での私にとっての大発見はアルベール・マルケという画家。パリのサンミシェル橋を描いた作品が2つ展示されていた。野獣派の画家とされているそうだけれど、色遣いは野獣派とするととても優しい。かといって印象派の描く風景画とは全然違うし、ユトリロのような雰囲気とも違う。野獣派と言われれば確かにそうだし、近くで見ると平面的なベタッとした画面に見えるのもこの時代らしい。他の作品をうろうろ見て回っているときに、少し離れた場所からその絵がちらっと見えたときその透明感あふれる輝きに気づきハッとした。こんな絵が描けたらな、、、と思えてくるような絵だった。帰ってからネットで検索すると、若いころはマティスと共に美術学校でモローの元で学んでいて、晩年までマティスと交流のあった人物だった。うーむ。このタイミングでこういうことを知ると何か運命を感じてしまう。。。
まとまって作品を見られる美術館はないのか、画集などないのか、検索すると、日本では91年にマルケ展が開催されており、書籍としてもその展覧会の図録が一番充実しているとのこと。2016年にはパリで回顧展があったようで、自分はこういう惜しいタイミングで気づくことが多いのだよなあ、、、とにかく他の作品が図録でもよいので見たかったから、世田谷美術館の図書館に行ってみた。司書さんに尋ねると開架はされていなかったけれど出してもらって見ることはできた。「水の画家」と呼ばれることもあるそうで、確かに水辺の風景画が多く、マルケの透明感のある画風が最大限に発揮される対象なのかもしれない。今後もまとめて作品を見るチャンスはなかなかなさそうだけれど、覚えておこう。
それと、もう一つプチ発見だったのが「ナビ派」の画家の作品について。今まで、何となくボヤーッとしてる絵を描く人たちのグループという感じで、つかみどころがない感じがしてた。例えば「印象派」とか「点描」「野獣派」「キュビズム」とかは特徴が一応理解できてるのに比べて、「ナビ派」はよくわからん、、、という感じ。それが、今回の展示では何となく特徴をつかめた感じ。いい作品がそろっていたのかなあ。それとも最近マティス、ピカソの図版をまとめてみていたから、そのちょっと前の「ナビ派」がすっと入ってきたのかも?
数年前の横浜美術館でのプーシキン美術館展で、シチューキン・コレクションのセザンヌでセザンヌにやっとピンときたことを思い出し、シチューキンさんにますます興味がわいてきた。シチューキン・コレクションがまとまっているというエルミタージュ美術館、プーシキン美術館、行きたいなあ。ロシアのビザ免除、実現すると良いな。

2)関西から従姉が来たので、どこか小ぶりな美術館でランチできたらいいなと思い出かけました。改装後、行こう行こうと思っていたらまた改装してたり、でもすべてきれいになってオープンしたんですね。レストランも奥のカフェもなかなか良かったですよ。
肝心の展示ですが、まずは旧朝香宮邸から。1月にニースで同時代の洋館を見たばかりだったので、部屋や家具の小ささに驚いた。日本家屋を基準にすれば十分に立派なものなのだけれど、洋館とはいえ当時の日本人サイズ、いわゆる「ヒューマンサイズ」で建てたのだと思う。浴室の排水溝の蓋や天井の排気口の蓋にも装飾が施され、ドアノブもエリアごとに違った装飾があったりと、部屋の調度に一分の隙もないことに朝香宮の美意識の高さを感じられる。贅沢の限りを尽くしているという側面もあるから手放しに好感が持てるわけじゃないんだけど、よくぞ残ってくれましたと思える内容でした。邸宅の歴史の解説によると、実は庭園美術館としての歴史が一番長く、朝香宮邸だった時期はそんなに長くはないのだそうな。
フランス絵本の展示も興味深かった。子供のための本という概念が初めて生まれたころからの歴史をたどる内容で、絵本の画風の変遷というものをこうして一覧したのは初めて。なるほどと思う解説が随所にあり、いくら時間があっても足りなかった。

3)世田谷美術館をじっくり堪能しようと、企画展、ミュージアムコレクション展、区民ギャラリー、屋外彫刻作品など全部見る!と意気込んで出かけてきました。
まず企画展。高山辰雄という名前は覚えていなかったけれど、芸大卒業制作で買い上げとなった「砂丘」(セーラー服姿の女性が美しい砂紋のビーチに座っている)は知ってた。その他、チラシには、象徴派のような雰囲気の少女像、そしてナビ派というかゴーギャンぽい作品もある。解説によると、卒業制作買い上げとなり華々しく画壇にデビューした高山は、その後スランプに陥り、それを脱するきっかけになったのがゴーギャンの伝記だったのだそう。帝展で特選となった「室内」という作品は赤と黄色の服を着た少女の周りを緑・青が囲むもので、その影響が強く感じられるのだけれど、日本画だからか、もう少し温かみがある。
印象に残った高山の言葉があったのでメモしてきた。「個性的絵画から人間的絵画へ進みたい。欲するままに描いて、しかも万人の共感するものでありたい。」「個性」こそ画家の画家たる所以、と思いがちだが、そこからさらに進んでひとりの「人間」が欲するままに描くものが普遍的なものになる、それこそが本当の画家だということかな。しつこくマティスの話をすると、その画業を一覧するとやはり同じものを感じる。高山が最晩年に初めて描いたという自画像にはぐっとくるものがあった。
ミュージアムコレクションも区民ギャラリーもそれぞれに楽しめた。区民ギャラリーは、絵心のある区民の方たち(多分)の作品が並んでおり、自分にも絵心があったらなあ、、、と思わされる。広い部屋ではないけれど、一人の人の作品をギュギュっと詰め込んで展示していて、これだけの作品をそろえる過程を思うと本当に感心する。そして上手!プロなのかな?あんなふうに自由に絵を描けたらなあ、、、
屋外(屋内もあり)彫刻作品も、思いのほか充実!直島にあるリチャード・ロングの作品もあった。(検索したらかつて世田美で個展もやってた。)へーへー。
図書館にもお世話になったし、世田谷美術館がなかなかやることを知ったので、次は分館を攻めたいと思います。何せ、せたがやアーツカードを提示すれば160円で見られるのですよ!

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by fumiko212 | 2018-05-25 23:24 | アート | Trackback | Comments(0)

マティス勉強中

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今、マティスについての本をいくつか読んでいます。分厚い本ばかりなので、ニース時代、もしくはヴァンスの礼拝堂についてのところをまずは拾い読み。それだけでもマティスの作品理解の手掛かりになります。

グザヴィエ ジラール著「マティス―ニースにて 1917‐1954 (美の再発見シリーズ)」にあったマティスの言葉。オダリスク時代の作品について。

「この物憂い弛緩の雰囲気の中には、人や物を包み込む気だるい太陽の下には、大きな緊張がひそんでいるのです。これは絵画特有の次元で、構成要素の相互のはたらきと関係から生まれる緊張です。」

「大きな緊張」はマティスの作品を観るときの大切なキーワードだと心に刻もう。これは、マティスがまだ経済的に困難だった時代に作品を購入したというセザンヌから引き継いだものだとの記述が(どの本だったか忘れたけれど)あった。私は岡本太郎の「今日の芸術」にあった言葉「芸術は心地よくあってはならない」を思い出しました。明るい室内、窓、着飾った女性、または裸婦、花瓶に活けられた花、美しい家具、自身の作品、など、身近なものが繰り返し描かれており、一見すると親しみやすそうだけれど、よく見ると心地よさとは少し違う。それが「大きな緊張」からくるものだったのだ。マティスの作品をどんどん観たくなる。

「マティス 画家のノート」(二見 史郎訳)はヴァンスの礼拝堂の章を読んだだけなのですが、マティスの言葉の一つ一つ素敵すぎて泣きそうになります。
礼拝堂が完成し、クーチェリエ神父に「あなたは鼻を高くしていられますね。」と言われたマティスは、満足だがうぬぼれたりはしない、と答え、こう続けたそうです。長いけど引用します。「私が十本の指を使って最善をつくして制作してきたいつの場合でも、何かしらあるものがやってきてそれを成就させます、それは私に属しているものではなく、よそからやってくるのです。できるだけのことはやらないといけない、そしてすべてが済んだとき、何か天からの影響力が総仕上げにやってくる…でも、それが次の機会に助けになってくれるわけではない。自信を持って歩き出すこと、そうすれば道は開けてきます。」
これはもうあらゆることにあてはまる言葉で、例えばもうすぐ始まるオリンピックではそういうシーンを何度も目にすることになると思う。なんでもない私たちの仕事や生活にもあてはめられる。「天使が微笑む」とか「神様に選ばれた」とか、いろいろな言い方があるけれど、「自分に属していない何か」に微笑んでもらうには「十本の指」、つまり、決して頭で考えるんじゃなく、体を使ってそのものに触れる、汗をかく、という行為の積み重ねが「何か」を呼び寄せるのだろう。そして「それは次の機会に助けになってくれるわけではない。」本当にそう思う。

最後に、同じく「画家のノート」から。ヴァンスの礼拝堂が完成した後、パリで、あの荘厳なノートルダム寺院を訪れ、そこに集う群衆、建築、ステンドグラス、オルガンの音、そうしたものを見たマティスは自分にこう言ったそうです。「一体あの礼拝堂(ヴァンスの礼拝堂)はなんだろう、(略)あれは一輪の花だ。一輪の花にすぎぬとはいえ、しかし、花一輪ではある」二見史郎さんの訳も素晴らしいのだと思います。これは泣ける。南フランスの丘に建つ花一輪、そんな礼拝堂を持つ彼の地の人々が羨ましい。

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by fumiko212 | 2017-12-31 21:34 | アート | Trackback | Comments(0)

ゴッホ展を見に行った

最近、美術展に行った話をブログに書くこともなくなってしまったけど、今は毎日更新しているので書いておきます。
上野の都美術館でやっているゴッホ展に行ってきました。混んでた~。でも意外とよく見られました。近年、やたらと開催されている感のあるゴッホ展ですが、今回は久々によかったです。

ゴッホが浮世絵など日本(ゴッホが想像した日本)から受けた影響という視点でパリ後期から晩年の作品までをたどる今回の展覧会。大きく分けて、前半がパリからアルルに移って夏前まで、後半がサン・レミに移る前後からオーヴェール・シュル・オワーズ(最晩年)の作品という構成でした。ゴッホの代表作がたくさん生み出されたアルル時代後半の作品がほとんどないのが特徴。それで気づいたのはアルル時代の前半とゴーギャンが来てからの数週間では作品の雰囲気がガラッと変わっていたってこと。そして、サン・レミ時代、オーヴェール・シュル・オワーズ時代、と亡くなる直前まで画風が刻々と変化し充実していく様子が感じられる展示だったと思います。

観賞の上で私が注目したのは4つの時代の木を描いた作品。1つ目はアルルについてすぐの早春に描かれた花咲くアーモンドの木、2つ目はアルルを離れるころに描かれれたオリーブ園、3つ目はサン・レミの療養所の庭を描いた「草むらの中の幹」とその隣にあった同時期のものと思われる「花咲く灌木」、最後はオーヴェール・シュル・オワーズで描かれた「ポプラ林の中の二人」。「草むらの中の幹」はごつごつとした木の幹にばかり注目してしまうのですが、少し離れて見ると木の茂る薄暗い庭の地面にさす木漏れ日の美しさに目を見張りました。「花咲く灌木」も木の幹の色鮮やかさに驚くのですが、離れて見ると遠景の草原のなだらかな窪みが陰になっている様子など光の描き方がアルル時代と比べるとぐっと繊細になっていることに気づかされます。最後の「ポプラ林の中の二人」は今まで見たゴッホのどの絵とも違った不思議な魅力に満ちていました。この作品はシンシナティ美術館から出品されており、今回行かなければ二度とみることがない作品かもしれません。必見の1枚です。
これら、木を題材にした4つの時代の作品をたどって、たった10年の短い制作期間だったゴッホだけれど、例えばモネが60年以上かけてたどり着いた晩年の作品に匹敵するものを37歳の作品から感じ取ることができました。それはもしかしたら、生前、1枚しか作品が売れなかったことも関係しているのかもしれない。例えば、もしアルルに行ってすぐ作品が売れ出していたら、求められるままにその画風にしばらくとどまり制作をつづけたかもしれない。売れなかったがために、ゴッホは常に変化して行けたから、短い期間に最後の作品までたどり着いたのではないか。そんなことを考えてしまいました。

この展覧会は来年はゴッホ美術館に巡回する予定だから、作品はゴッホ美術館からのものだけだと思っていたのですが、様々な美術館から集められていたのにも驚きました。くれらーミュラー美術館からの作品に気に入ったものが多かった。行きたい、行きたい、と言いながら行けていないオランダに来年こそ行こうかな。そうしたら、あの最後の1枚をもう一度見られるかも?

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by fumiko212 | 2017-11-21 22:09 | アート | Trackback | Comments(0)

脳に汗をかかせるために

土曜日に再び世田谷文学館へ行き「ムットーニ・パラダイス」再見。

先日はスペシャルツアーと題した1時間の上演会のみだったので、今度は作品をひとつずつゆっくり鑑賞。だんだんとムットーニの楽しみ方を思い出し、途中2度の上演会を挟みつつ4時間があっという間に過ぎました。

何せ久しぶりだったので今回初めて見る作品がいくつもあったのですが、この1~2年の大型作品はどれも私などの想像を越える新たな表現と独創性に溢れており、2度、3度と繰り返し見るごとに新たな感動がありました。
中でも、中原中也記念館で昨年開催された中原中也と萩原朔太郎展に出展されたという「題のない歌」は、まだまだ見たりない、見るたびにもっといろんなことに気づくはず、と思わされました。ムットーニさんのおすすめに従い、さっそくこの詩が収められているという詩集「青猫」を購入(「定本青猫」は入手困難のため、他の詩集の作品も収録されている文庫本を購入)。とにかく変な詩ばかりだということで、集中力を要しそうだけど、ぽつぽつと読んでみよう。

展示室の最後にある「Spirit of song」は宮沢和史さんの「書きかけの歌」を題材にした作品で、10年前の世田谷文学館での展示で見たのが最後でしたが、ゾクゾクするほど素敵でした。この曲をチェロで弾いてみたくなり、昨夜はひたすらピアノアプリで音取り。楽譜にしないと弾けないので五線譜を探さなければ。

そうそう。ムットーニを見るとこうしていろんな方向に興味が広がっていくんだよね。そこもいいんだよな~。
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by fumiko212 | 2017-05-15 21:05 | アート | Trackback | Comments(0)

引き返せるのか?

一つ前のエントリをムットーニの展覧会を見に行った直後に書き、その後、私はすっかり打ちのめされてしまった。買ってきた図録をめくり、ここ数年のムットーニの活動記録を読んだ。これを読んでも自分がいつからムットーニを見に行かなくなったのか思い出せない。ロゴスがなくなったからかと思っていたが、ロゴスの最後の数年の展示は見ていない。八王子はどうだったか…。

私はどちらかというとしつこい方で、20代の頃に好きになったものは細々と見続けている。そこに新しいものが少しづつ加わって、少しずつ成熟してきたのではないかと思っていた。でもそれは違ったということに気づいて打ちのめされたのかもしれない。

近頃の私は、まあ経済的な事情もあり、手当たり次第にいろんなものを見なくなっていた。限られた予算から、間違いなく楽しめそうなものだけを選んで見ていた。それは間違いなく楽しめていた。
けどそれで何かを失ってしまった。そんな気はしていたが、それに気付かされた。
ムットーニに飽きたわけではなく、見られるものなら見たかったのに、要は手を抜いていたのだ。
ぴあのアラートメールや、ツイッターの都内の美術展情報のように、自動的に入ってくる情報の中から、さらに間違いなく楽しめそうなものだけを選んで見に行っていた。読む本は本屋大賞のノミネートなんかを参考にして選んでた。それで満足してた。

いつからこうなった?SNSとかスマホがいけないのか?年齢からくる体力、気力の衰えか?

これはここ数年のムットーニを見られなくて残念だったという話ではない。もっと根の深い話。

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by fumiko212 | 2017-05-07 01:10 | アート | Trackback | Comments(0)

何度読んでも意味が分からないが、その言葉の美しさに魅了された

中也の詩「地極の天使」を評したムットーニの言葉。
何度見てもよく分からないが、その光の美しさに魅了された。
ムットーニの作品の魅力も同じように表せる。
2010年代に入ってからだろうか。ムットーニを追いきれなくなり、作品鑑賞から離れていた。その間のムットーニの進化を今日見た。

お久しぶりです。と言ったら、ごめん、案内だしてないもんね~と変わらず気さくなお人柄で返してくださる。
それに油断したら、中はとんでもない進化を遂げていた。

表現者とは、かくあるものなのだ。

会場を出てすぐにインスタに記した言葉。

久しぶりにムットーニの口上を聞き、脳の使ってなかった部分が呼び覚まされた。ここ数年、目に見えるもの、結論のあるものばかりに接していたような気がする。不条理とはかくも幻惑的なものだったか。アートの真髄を見た。

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by fumiko212 | 2017-05-06 19:31 | アート | Trackback | Comments(0)