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2018年 08月 09日 ( 1 )

7月5館目:縄文1万年の美の鼓動/東京国立博物館平成館

7月の最後の金曜日に訪れたのは縄文展。素晴らしかった。これは必見です。本当に観てよかった。なんというか、、、日本人観が変わった感じがする。
縄文土器と言えば、岡本太郎の写真で見て以来、何となく気になる存在。それから、チェロの先生が縄文にはまっていると何度もうかがっていたので、その刷り込みもあった。3月には先生が演奏するというので、本展のプレイベントも聴講しました。
国宝が揃うのは来週から、というタイミングだったけど、とにかく混んでしまわない内に、、、と急いで出かけました。しかし、肝心の縄文のビーナスがまさか後期のみ展示だったとは、、、かなり残念。それでも、展示されていた作品がとにかく膨大で、3時間みていったけどギリギリでした。

まずは土器を中心とした前半の展示。入ってすぐのところに中期(と記憶)の大型土器が展示されており、その存在感と造形の美しさにしばし釘付けになりました。国宝の火焔型土器の姿とは全然違ったのですが、規則性がありながら複雑に表面を取り巻く文様、堂々とした力強さと優美な繊細さを併せ持つ形状、そして何より感動するのが焼成時なのか煮炊きに使った跡なのか表面の煤の跡。これ書きながら、やっぱりもう一度見たいという気持ちがむくむく湧き上がってきています。濱田展もでしたが、1つ目の展示物を選ぶセンスに脱帽。完全に縄文の世界に没入してしまった。
震える足取りで壁際の展示ケースへ移動。展示番号1番がついた、多分今回の展示物で一番古い時代、草創期(前11000~前7000年)の土器「微隆起縄文土器」を見た。最初に見た新しい(と言っても前3000年とか)ものよりはサイズは小さく文様のパターンも少ないけれど、その繊細さは決して稚拙ではなく、すでに完成された美をたたえていることに衝撃を受ける。地域や時代によって形状や文様、薄さなど変化するものの、古い時代ほど原始的であるという法則はなく、あらゆる時代においてもその手業は完成されており、洗練された美が表れていることが一目瞭然だった。
縄文の美とは、私は何となく「土着的で原始的な美しさ」つまりはプリミティブなものであろうと予測していたのですが、実際には造形においても装飾においても複雑な洗練の美しさを持っていることに本当に驚かされた。ここまでは土器や狩猟道具、装身具を展示した前半のエリアでの感想。
後半は国宝を集めた部屋からスタート。ここからは土偶を中心とした祈りの世界が始まります。土偶については土器とは全く違う印象を受ける。国宝の3件はどちらかというと土器と同じく洗練とプリミティブを併せ持っているけれど、その先に並ぶ土偶たちの造形はプリミティブの世界。土器ではあれだけ形に洗練を与えた人たちが、自分たちに似せた偶像を作るときは写実から遠ざかる。それはなぜなんだろう?と考え込んでしまう。キリスト教によってギリシャ彫刻が破壊され、写実や遠近法が一度捨て去られた中世の西洋と重ねて考えてしまう。土器では自由な造形をする一方で、土偶ではあえて写実的な造形を捨てたのは、技術がなかったからなのか?それが祈りのためのものだったからなのか?
出産の無事を祈るためのものとされる土偶が、毎日の食事に使う道具である土器と同じくらいのボリュームでこれだけたくさん展示されている。子孫を残し、集落を一定の人口で維持することを切望した人々の願いを感じる。そんなことを考えながら見ていくと、だんだんと当時の人たちの暮らしが目の前に立ちあがってくるように感じます。
「猪型土製品」というものがいくつか展示されており、解説文には猪は当時において最も重要な獲物だったと書いてありました。煮炊きに使ったという土器の大きさを考え合わせると、猪が獲れた日は、集落全体で猪鍋をこしらえて皆で火を囲み食事をした情景がありありと浮かんできます。そして、猪を丸焼きにするのではなく、こんな大きな深い鍋で煮るのは、水の豊かな日本ならでは。縄文土器があのような装飾性を称えていったのは何と言ってもご馳走に使う鍋だからだったのだと思う。そして出産が近づいた妊婦さんは集落の中で最も環境のいい場所、そこには集落で一番上等な土偶があり、そこで出産に臨んだのではないか。集落全体が大きな一つの家族のように暮らしていたんじゃないかと。
そんなことを思い浮かべながら見ていた後半で、ドキッとする展示物に出会いました。小さな陶板に子供、それも乳児と思われる小さな手形や足形が押されたもの。解説では亡くなった子供のものとも考えられるとありました。土器をつくるのは女性の仕事だったとの解説もあり、無事に生まれた我が子を間もなく亡くした女性が、土器制作の合間に亡くした子供の手形足形を残したのでは、、、と考えずにはいられない。
こうして、後半の展示では縄文の人たちの生活が人間の根源的な願いを共有しながら日々営まれていたことが感じられ、その道からすっかり外れてぼんやり暮らしている自分には眩しすぎる情景として迫ってきました。

例えば、ある画家の生涯をたどる回顧展で、最後に絶筆の作品にたどり着いたときに、ぐっと来てしまうことがあります。この縄文展では、1万年という途方もなく長い時代を生き抜いた縄文の人々の大叙事詩として予想をはるかに上回る何者かが自分に迫ってきた。最後に岡本太郎が愛した縄文土器が展示されており、それが現代に引き戻してくれた。これが無かったらちょっと打ちのめされたような気分で帰ることになったかもしれない。

さて、縄文のビーナスをどこに見に行くか、、、素晴らしい土器群をもう一度見るために上野に行くか、ビーナスが眠っていた土地、茅野市に見に行くか、、、どっちも見る?会期は9月2日まで。どうするか考えます。

by fumiko212 | 2018-08-09 23:47 | アート | Trackback | Comments(0)