1人の人間が亡くなるということ

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今朝、私のfacebookのフィードはこの方の写真(どれもいい写真でした。)とささげられた哀悼の言葉に埋め尽くされていました。
日本時間では昨夜入ったニュースでしたが、その後、続々とヨーロッパ、アメリカのオーケストラ、音楽家から投稿されたものでした。

朝の通勤電車の中で一つ一つ読みながら、1人の人が亡くなったことで失われるものについて考えました。
偉大な音楽家の訃報を聞いたとき誰もが思うのは、彼の生み出す新たな音楽を聴くことは二度とできないのだ、という事実。昨夜、多くの音楽ファンが感じたことだと思います。
けれど、同業者である音楽家から発せられた哀悼の言葉を読み進めるうちに、そのような事実を超えて失われたものの大きさがひしひしと伝わってきました。
偉大な音楽家であればあるほど、その人生を音楽にささげて生きてきたはずです。その人生のすべてをかけて取り組んだ末にその人の中に蓄積された音楽世界のすべてが失われてしまうのです。弟子のような存在の人がいたとしても、才能あふれる後継者と目される人がいたとしても、そのすべてを受け継ぐことはできません。どんなに技術が発達してもすべては一代限りのものなのです。

そうして失われたものの大きさを実感しながら、同時に遺していったものの大きさも感じていました。
数年前に、第三舞台の最終公演を見に行ったとき、鴻上尚史さんが書いたあいさつ文のようなものが観客に配られました。その中で、「新作を必ず見に来てくれた筑紫哲也さんに見てもらえず残念だ。けれど、生前も頻繁に会えていたわけではなく、当時も今も変わらず、自分は心の中で筑紫さんに話しかけている。」というような記述があったように記憶しています。
今朝、ゆかりのある音楽家たちからマエストロ・アバドにささげられた言葉を読むうちに、そのことを思い出したのです。彼らは、この先も、ふとした時にそうしてマエストロに話しかけ続けるのだろうな、と感じました。彼が今日の演奏を聴いたら何と言っただろうか、と。

音楽ファンである私たちがその演奏を聴くとき、間接的に、その遺していったものを受け取ることになるのだと思います。
偉大な音楽家の業績は決して一代限りでは終わらないのです。
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by fumiko212 | 2014-01-21 21:16 | 音楽 | Trackback | Comments(0)
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